罪の本質
人間の愚かさによる様々な行い、思い、感情を聖書は罪と読んでいます。一般に罪と言いますと、有罪か無罪かの刑事上の犯罪を指します。有罪か無罪とかいっても、一つの名詞として罪という言葉を使うことはありませんから、罪という言葉自体、非常になじみが薄い言葉なわけです。そこで、聖書が教える罪とは何かここで共に考えてみましょう。マタイ5章21節ー22節をクリックしてください。
イエスが生きた時代も現代と同じように人を殺すことは、裁きを受けるべき社会的な罪でした。ところがイエスはそのような判断基準をくつがえす様なことをここで言っています。心の中で人を「能なし」「ばか者」と中傷したりすること自体、殺人と同等の罪であると言っているのです。ここでイエスは、「罪とは実際に行動として行なっていなくても心によってなされてしまう」と言っています。さらにイエスは次の聖句で罪の本質について語っています。
事実、実生活の中で多くの人は、これと同じようなことをしています。人に知られなければ何でもやってもいいという考え方です。しかし、そんなことはありません。その報いは、この生きている間に来るかもしれません。確かなことは、人は死んだ後、もう後戻りが出来ない時に、必ずその報いを受けるということです。
この世の中を見て罪についてわかる事
罪が何であるかを理解するには少し世の中を観察するのが早いかも知れません。「この世の中ちょっと狂ってるかな」という疑問をふと思ったことはありますか。世界中のどこかで戦争は起こっています。日本は、と目をむけますと、毎日のように殺人事件と強盗事件が発生し新聞の3面記事の欄を埋めています。また、毒物による傷害または殺人が、毎月、月間の出来事のように起きています。さらに政治と企業での賄賂のやり取りや不正は後を絶ちません。毎年のように政治家または会社の役員が賄賂のやり取りで逮捕されています。これは氷山の一角に過ぎないでしょう。また青少年の犯罪は年々増加しています。子供が親を殺してしまった、またはその逆に親が子を殺してしまったなどの事件はいったいどれほどあったでしょうか。実際に、ある一定の年齢の少年を一般成人として扱う法改正も行われようとしています。では、私たちの普段の生活ではどうでしょう。車、保険、土地、家などの購入、アパートの賃貸、電話等でのいろいろな勧誘などで私たちはいろいろな契約または取り引きを結ぶことがあります。その中でだましだまされたりがこの世の中でしょうか。車を売るデイーラーは初めから値引きを計算に入れて見積もります。また保険を売るセールスマンは被保険者にとって不利益なことは決して言いません。こちらから尋ねても、はぐらかした答えが帰ってきます。電話での勧誘、訪問販売の勧誘でも、セールスマンは決して商品の不利な点は言いません。訪問販売でうまく売りつけた人も、車を相場の値より高く売り付けた人も、他の所で所詮どこかでだまされているのでしょうか?
現代は宇宙へロケットを飛ばしコンピューターで瞬時に通信もできるようになった時代です。科学の可能性はとどまる所を知りません。そんな時代になっても人間の愚かさは変わりません。そしてこの愚かさは私たち自身を苦しめる愚かさです。しかし、人間はロボットではありません。人間は神によって自由意志を与えられ、罪を行ない続けるか、それとも神の教えに従って生きるかの選ぶ権利を与えられました。
罪が人間にもたらした事
罪は人間社会に様々なかたちで人間社会に影響してきました。4つに大きく分けて考えてみましょう。第一に、人は天地万物を創造された神を偶像化してしまいました。創造主を礼拝するよりも創造された山、河、月、太陽や人間などの被造物を礼拝するようになったのです。また人が自身で造った偶像を礼拝したのです。
第二に、罪は人間関係を破壊しました。うまくいっている人間関係においても、何かのきっかけで罪の種は人の心に入ります。何年もかけて築き上げた人間関係を一日で破壊することはたやすいことです。第三に、人は矛盾した存在となりました。非常に自己中心的でありますが、そのような自分自身を嫌うものになってしまったのです。ある日は自身に誇りを持ち、またある日は嫌悪感に才悩ませる矛盾した存在になってしまったのです。お互いに愛しているといって結婚しても、1ヶ月もするとその愛はなかったかのように行動することも可能です。このような矛盾した人の行動は数え上げたら際限なくあります。第四に、これらの人間社会への影響は結果的に神と人間の関係を破壊してしまったのです。人は神の教えに逆らい罪を犯し、神から離れた存在になってしまったのです。 この罪の中で人はもがき苦しみ、最終的に神との関係を完全に絶ち切ってしまう死を迎えます。人は死に対して恐怖を覚え罪に対して恥を覚えます。
しかし、人は自分自身を理解していませんから、このような感情や罪にをどう対処したらよいかわかりません。そのような状態で人は救いの手を哲学に求め、あるいは人間が作り上げた宗教に求めたのです。それも空しい努力に過ぎません。なぜなら、人は罪の根元を知らないからです。そこで罪とはいったい何なのか考えてみる必要があるようです。